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見附今町・長岡中之島大凧合戦 由来
現在の大凧合戦
「越後今町男の盛り、凧のいくさは意気でやる」と凧民謡で唄われている「見附今町・長岡中之島大凧合戦」は、守門・弥彦山が眺望できる刈谷田川両岸において、6月の第1土曜日から3日間、見附市今町・長岡市中之島の若人により繰り広げられます。
刈谷田川をはさんで両岸から絡め合う六角の大凧は、かつては美濃紙100枚を張り合わせたことから「百枚張」と呼ばれており、縦4.3メートル、横3.3メートル、畳約8枚分にもなります。
現在の凧合戦は、武者絵や美人画のほかにも様々な絵柄や色彩を用いた大凧が大空狭しと駆け巡り、その壮大さと優美さでますます盛況さを増してきています。
ひとたび凧が絡み合えば合戦開始。どちらか一方の凧糸が切れるまで力の限りを尽くして引っ張り合い、激しい空中戦が展開される、全国でも数少ない凧合戦の1つです。
大凧合戦の起源
起源について詳しい文献は残っていませんが、信濃(現在の長野県)の紙商人が、たまたま端午の節句に今町へ立ち寄った際、刈谷田川堤防上で大凧を作り、打ち上げたのが始まりと言われています。今から300年以上も前のことです。
現在の大凧合戦の形態となったのは、江戸時代の天明3年(1783年)より、刈谷田川改修の堤防を踏み固めるために行って以来、年中行事として今に至ると伝えられています。
凧合戦の歴史
江戸時代~明治時代
江戸時代末期の弘化4年(1847年)、今町は戸数550戸を有する地方有数の商業都市となっていました。地主、大商店などでは農村の田植え休みに合わせて、使用人の慰安をかねて多額の費用をかけて各組の凧を作りました。
当時使用していた凧は、美濃紙40~60枚張りの中型六角凧(現在は100枚張り)が多く、旧町名で下町、上町、横町裏の堤防上が合戦場でした。
明治時代初期には、初代新潟県知事も見物に訪れており、大小の凧が維新開花の大空で豪壮な凧合戦を展開していました。
大正時代
大正時代に入ると、各商店主が実業協会をつくり、毎年お正月の初売りには午前2時頃からお客が並び始め、初売り一番客には景品をプレゼントしていました。
当時は、毎年6月5日・6日・7日に大凧合戦を開催していました。今の第四銀行今町支店裏の堤防を中心に、各凧組、料理屋などの桟敷10数戸も立ち並び、料理屋、米商、呉服商を中心に、見附、栃尾、長岡、遠くは東京、大阪、京都などから商社を招待し、芸奴をあげた大宴会を催していたそうです。
当時の今町の料理屋には、30人ほどの芸奴がおり、花柳会の全盛期でした。大正館劇場も現在の新潟県信用組合今町支店裏にでき、町村住民の慰安の場として使用されていました。空館の時には、実業協会で100枚張の大凧を作っていました。
提灯屋、人形屋、表具屋などが10数軒あり、その人々により100枚張の大凧が、毎年20~30枚作られていました。このほかにも、150枚張、200枚張の大型凧も制作されていました。この大型凧は名物で、今でも地域の人々の間で語りつがれているほどです。
昭和時代
当時の刈谷田川の川幅は約40メートルほどで、商店街の通りには出店が立ち並んでいました。
今のように自家用車などがほとんどない時代で、交通機関としてタクシーと乗り合いバス与板-見附線(南北自動車)、長岡-今町-三条線(嵐南自動車)しかありませんでした。
当時の凧合戦には、見附、長岡、三条などの各農村地域の人々や、日頃から今町、中之島の商店と取引のあった人々がちまきを持って見物に来ていたそうです。