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耳取遺跡とは
耳取の位置
耳取遺跡は新潟平野東部の東山丘陵から派生する標高76mの尾根上の平坦地に立地する縄文時代の集落跡です。
耳取遺跡のこれまでの歩み
耳取遺跡を含む丘陵一帯は明治初期に開墾され、土器や石器が多く出土することから次第に知られるようになりました。明治30年代以降、著名な研究者が踏査を行なったことにより、見附市を代表する遺跡として広く知られ、多くの人々が訪れるようになりました。
昭和42年に増えてきた盗掘に対処し遺跡を保護するために集落の時期や内容を確認する発掘調査、昭和62年には民間開発計画との調整を図るための発掘調査が行われました。これらの調査によって、耳取遺跡は約72,000平方メートルの広さを有し、その時期は縄文時代草創期から弥生時代前期(縄文時代早期を除く)まで及ぶこと、さらに遺跡周辺にも旧石器時代から中世までの多くの遺跡が存在することが確認されました。これらの調査成果を受けて遺跡保護の機運が高まり、開発計画は中止となり、以降、大規模な開発を受けることなく現在まで引き継がれてきました。
平成23年から26年までの4年間、見附市教育委員会により、集落のより詳しい内容を把握し将来にわたって遺跡を保護活用していくために発掘調査を行いました。調査によって各時期の集落の様子や規模などさまざまな内容が確認され、遺跡の重要性がさらに高まりました。
平成28年には、晩期の集落構造を明確にするための調査も実施しました。
平成23年から28年までの調査成果
各時期において中期は中葉から後葉(約5000年前)、後期は前葉(約4000年前)、晩期は後葉(約2300年前)にムラがもっとも盛んであったことが分かってきました。そして、それぞれのムラの様相も次第に明らかになってきました。
耳取遺跡の縄文時代時期別範囲
縄文時代中期
中期のムラからは直径8~3mの卵形の平面形をした12軒の竪穴建物跡とそれら建物に伴う様々な形の炉跡が見つかっています。これらの建物は南西側が開いた馬蹄形に並んでいて、その範囲は南北60m、東西70mに広がっています。また中期の建物跡から長さ10.6cmもある大きなヒスイの大珠が出土しました。これはヒスイ製大珠として新潟県内最大のものです。
縄文時代後期
調査によって、66棟もの建物跡が見つかり、ムラの範囲も南北200m、東西118mと非常に大規模なものであることが分かりました。後期のムラの中央に祭りなど行う広場があり、その周囲を取り囲むように楕円形の建物や長方形の掘立柱建物が建てられていたものと考えられます。さらにムラの外側にはゴミ捨て場が見つかり、そこから大量の土器が出土しました。この時期が耳取遺跡において最も栄えた時期と考えられ、後期では新潟県内最大規模の集落です。
縄文時代晩期
平成28年の調査により、晩期の集落の様子がわかってきました。晩期のムラでは大型の柱6本からなる掘立柱建物が見つかっています。柱穴は直径約130cmで深さ1m以上掘られていて、その中に直径50cmほどの柱が立てられていました。建物として確認できたのは55棟でしたが、同じような穴は遺跡東側の広範囲から見つかっています。これらも同様の建物の柱穴と考えられ、何棟かのまとまりが間隔をあけて配置され、晩期のムラが作られていたものと考えられます。
耳取遺跡は縄文時代の中・後・晩期3時期という長くにわたって地域の中心的な集落が営まれていた非常に重要な遺跡です。このように一つの遺跡の中で3時期の集落が確認されている例は全国的に見ても極めて稀で、集落の変遷を考える上で非常に貴重な存在といえます。
豊かな自然が広がる耳取遺跡
耳取遺跡は大規模開発による破壊を受けずに、現在まで引き継がれてきた非常に貴重な遺跡です。さらに遺跡やその周辺の丘陵には豊かな自然が残されており、四季折々の表情を見せてくれます。クリやクルミ、ドングリ類など食用となる植物が多く自生しており、里山の風景を醸し出しています。こういった自然環境は今後耳取遺跡の整備活用を進めていくにあたって非常に重要な資源であると考えています。
耳取遺跡の価値・魅力
- 縄文時代の3時期にわたって主要な集落が営まれていた点(特に後期は県内最大規模)
- 現在まで大規模な開発等により破壊されずに良好な保存状態で引き継がれてきた点
- 古くから調査が行われ、県内の縄文研究史上で非常に重要な役割を果たしてきた点
- 周辺に良好な自然環境が残されている点
こういった遺跡の持つ価値、魅力を内外に発信し、未来にわたってこれらの価値を受け継いでいきます。