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07 永閑寺 ※戊辰戦跡

1828(文政11)年の三条地震でお寺のほとんどが壊滅しましたが、40年後に再建され、1868(慶応4)年4月には、本堂落慶法要が行われました。
しかし、同年、北越戊辰戦争が始まると、5月28日には新政府軍が今町に入り、永閑寺を本陣としました。同6月2日に長岡藩・河井継之助による今町攻撃が行われると、新政府軍は劣勢を強いられ、今町から見附方面に敗走しました。
永閑寺は新政府軍の本陣となったことから、同盟軍により、落慶法要が行われたばかりの本堂に火が放たれ、鐘楼を残して全焼してしまいました。その後、改めて再建されたのは、1887(明治20)年になってからのことでした。
のちに、東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王より「永葉閑雅寺」の扁額(へんがく)を賜っています。
しかし、同年、北越戊辰戦争が始まると、5月28日には新政府軍が今町に入り、永閑寺を本陣としました。同6月2日に長岡藩・河井継之助による今町攻撃が行われると、新政府軍は劣勢を強いられ、今町から見附方面に敗走しました。
永閑寺は新政府軍の本陣となったことから、同盟軍により、落慶法要が行われたばかりの本堂に火が放たれ、鐘楼を残して全焼してしまいました。その後、改めて再建されたのは、1887(明治20)年になってからのことでした。
のちに、東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王より「永葉閑雅寺」の扁額(へんがく)を賜っています。