ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 市民部 > まちづくり課 > 11 米山塔・坂井口 ※戊辰戦跡

本文

11 米山塔・坂井口 ※戊辰戦跡

ページID:0036183 更新日:2025年3月6日更新 印刷ページ表示
米山塔・坂井口
 「坂井口」とは、今町に坂井方面から入る道のことを指しますが、古くから街路名として使われてきました。坂井口にある三叉路には、米山薬師塔、筆塚(新田定房の書)、法華塔、相撲記念碑(島ケ崎喜源治の書)などの石碑が集まっています。
 1868(慶応4)年の北越戊辰戦争で戦場となった際、坂井口を守っていたのは、新政府軍(高田藩兵、上田藩兵ほか)約100名の兵士と大砲1門でした。対する山本帯刀(たてわき)率いる同盟軍(長岡藩、会津藩、米沢藩等)は兵士約200名と大砲4門でした。
 同年6月2日の早朝、山王を出発した同盟軍は片桐、下鳥、指出、田之尻の新政府軍を破り、見附町の新政府軍をけん制しながら坂井へ進みました。坂井神明社に大砲を据えると坂井口を砲撃し、激戦の末、山本隊は坂井口を攻略、夕方には今町に入りました。
米山薬師塔はその当時、三叉路の別の場所に坂井の方を向いて建てられていたもので、同盟軍長岡藩・山本隊が撃った銃弾の跡が今でも残っています。