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15 心太屋川戸 ※戊辰戦跡

ページID:0036188 更新日:2025年3月6日更新 印刷ページ表示
 鉄道や陸路の輸送が発達するまでは、船による水路の輸送が大量にしかも効率よく荷物を運べる手段であったため、今町では刈谷田川の舟運が重用されました。 地域一円のコメなどの物産を新発田藩の倉庫のある沼垂(現在の新潟市沼垂)まで運ぶため、「コウレンボー」と呼ばれる、コメを250俵も積める大型船が盛んに行き来し、今町はその中心地として大いに栄えました。 「川戸」とは川(かわ)湊(みなと)(船着き場)のことで、今町には一時13か所ほどの川戸がありました。 心太屋川戸は地名から名づけられた公的な川戸であり、個人所有の川戸には商店名に由来する「扇(せん)藤(とう)川戸」などがありました。
 北越戊辰戦争時、三林で本隊と別れた同盟軍別働隊(長岡藩、会津藩ほか兵士約180名と大砲1門)は刈谷田川を渡って中之島へ向かいました。まもなく野口を守る新政府軍(高田兵約20名)と交戦し、やがて、猫(ねこ)興野(ごうや)、横山を守る高田兵約20名、方(ほう)義隊(ぎたい)木砲2門、本陣・大竹邸より駆けつけた長州奇兵隊約20名との戦いも始まりました。
 同盟軍は10名ほどの決死隊を新政府軍の後ろへ大きく迂回させ、奇襲を図りました。この作戦が成功し、新政府軍は長岡方面へと敗走していきました。その後、刈谷田川を越えて心太屋川戸に上陸した同盟軍別働隊は長岡藩本隊(河井軍)と合流。安田口を攻略し、今町に入りました。