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19 新田名主邸跡 ※戊辰戦跡

この場所はかつて、今町新田の名主・新田家の屋敷があり、役所でもあったところです。
1868(慶応4)年の北越戊辰戦争では、新政府軍長州藩の宿舎となり、15名ほどの兵士が宿泊しました。同年6月2日の今町での攻防戦は同盟軍が勝利し、索敵のため今町は焼き払われましたが、新田邸の土蔵と見附口の大丸屋だけが焼け残りました。
翌日6月3日には、焼け残った土蔵を長岡藩総督・河井(かわい)継之(つぎの)助(すけ)が検分しました。この戦いでは新田家の長男が居之隊(きょしたい)として新政府軍に加わっており、武器弾薬などがないかと疑ったためです。なお、焼け残った土蔵の戸は現在の料亭・柳屋で保管・展示されています。
1868(慶応4)年の北越戊辰戦争では、新政府軍長州藩の宿舎となり、15名ほどの兵士が宿泊しました。同年6月2日の今町での攻防戦は同盟軍が勝利し、索敵のため今町は焼き払われましたが、新田邸の土蔵と見附口の大丸屋だけが焼け残りました。
翌日6月3日には、焼け残った土蔵を長岡藩総督・河井(かわい)継之(つぎの)助(すけ)が検分しました。この戦いでは新田家の長男が居之隊(きょしたい)として新政府軍に加わっており、武器弾薬などがないかと疑ったためです。なお、焼け残った土蔵の戸は現在の料亭・柳屋で保管・展示されています。