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見附花火のとびら

ページID:0040583 更新日:2025年5月30日更新 印刷ページ表示

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見附花火のとびら

見附市では、見附まつり花火大会公式Instagramアカウントを開設しました。

・見附まつりや花火大会の起源、地域の歴史
・花火の歴史や日本文化とのつながり
・花火にまつわる豆知識・雑学

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なお、以下には、インスタグラムに掲載している内容を、そのまま転載しています。
インスタグラムをご利用でない方も、同様の情報をご確認いただけますので、ぜひご活用ください。

投稿内容は、見附まつり実行委員会の花火部員がインターネットや書籍で調べて作成しています。
できる限り正確を期していますが、もし誤りなどにお気づきの点があれば、まちづくり課生涯学習係(0258-62-1058)までご連絡ください。

【目次】​
第1回:見附で初めて花火大会を開いたのは、誰?
第2回:日本で最初に花火を見たのは、徳川家康?​
第3回:大火から立ち上がったまち ― “見附まつり”誕生の原点
第4回:昭和44年の夏、見附がひとつになった日「第1回みつけまつり」

​第1回:見附で初めて花火大会を開いたのは、誰?

見附の花火は、今では「見附まつり花火大会」として、見附市が主催する夏の風物詩ですが、その始まりは、もっと昔にあったようです。
今回は、地元で長く新聞に携わり、花火部員としても花火大会にご尽力いただいている見附新聞社の田崎さんから伺ったお話をご紹介します。

見附で最初に花火大会を開いたのは、実は「見附新聞社」だったとのこと。
昭和40年代前半、花火大会は、今のような見附市のイベントではなく、商業目的として行われていたそうです。
当時の商店街には、当時の様々なエンタメを楽しめる「開盛座」もあり、演劇や映画などでにぎわう、活気に満ちた時代でした。

花火大会の会場は、なんと、商店街(本町十字路)から1kmちょっとの観音山。
道も舗装されていないなかで、花火師たちが花火筒をかついで山を登り、打ち上げの準備をしていたという話も・・・。
今では考えられないような苦労と情熱に支えられていた時代です。

1商店街・大雪(S38)  2商店街(S41) 3商店街(S46)

【掲載画像について】
1枚目:昭和38年当時の商店街の記録で、いわゆる「38豪雪」の際の様子。前年末から降り続いた雪は、1月31日に積雪深3.4メートルに達し、家屋19棟が全壊するなど大きな被害をもたらした。
2枚目:昭和41年当時の商店街の様子
3枚目:昭和46年当時の商店街の様子

第2回:日本で最初に花火を見たのは、徳川家康?​

前回は、「見附の花火大会のはじまり」についてお伝えしました。
今回は視点を全国に広げて、「日本で花火が始まったのはいつ?」というお話です。

火薬が日本に伝わったのは、1543年の種子島。
鉄砲とともに伝来し、当時の日本に大きなインパクトを与えました。
でも、この火薬が「花火」として使われるようになるのは、もっと後のこと。

記録によると、日本で初めて花火を見た人物は、あの徳川家康だといわれています。これは、江戸時代初期、1600年代前半の話です。
静岡にあった駿府城で、中国から来た商人が披露した火技を、家康が「珍しいもの」として楽しんだ様子が、当時の記録『駿府政事録』に記されているのです。

つまり、見附の花火のルーツをさかのぼっていくと、その先には世界の歴史、日本の開国、将軍の好奇心があったのかもしれません…!

駿府政治録 徳川家康 南蛮屛風 南蛮屏風

【掲載画像について】
1枚目:「駿府政治録」
江戸時代初期の、駿府城における徳川幕府の政治録・日記。
『駿府政事録』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200022977
2枚目:徳川家康の肖像画
3・4枚目:南蛮屏風
南蛮屏風は、16〜17世紀の日本で制作された屏風絵で、ポルトガル人などの南蛮人とその風俗を描いています。日本と西洋の文化交流の様子を伝える貴重な資料です。

第3回:大火から立ち上がったまち ― “見附まつり”誕生の原点

第2回では、見附で初めて花火大会を開催したのが地元の見附新聞社だったことをご紹介しました。
では、その花火大会がどのようにして、今の「見附まつり花火大会」へとつながっていったのか。
今回は、その転機となった出来事をひもときます。

時は昭和43年。
見附市新町地区で70棟以上が焼ける「新町大火」が発生。住宅や商店が失われ、地域は大きな被害を受けました。
しかし、この災害をきっかけに「地域をもう一度元気にしよう」という声が高まり、それまで別々に行われていた「本町諏訪神社」「金毘羅神社」「棚織神社」「新町諏訪神社」の4つの祭礼が統合されることになります。
こうして誕生したのが「見附まつり」です。

この流れの中で、見附新聞社が行っていた花火大会も、観光協会(現在の見附商工会)に引き継がれ、「市民のお祭り」として昭和44年7月25日、見附まつりとともに新たなスタートを切りました。
まちの再生を願う人々の思いが込められた花火――
そこには、ただの催しではない“復興の物語”があったのです。

新町大火 新町大火 新町大火 新町大火 新町大火

第4回:昭和44年の夏、見附がひとつになった日「第1回みつけまつり」

昭和44年7月25日、「第1回みつけまつり」がスタートしました。
3日間にわたり、まちは大きな熱気と感動に包まれました。

当時のプログラムには、大名行列、エレキ大会、東京6大学ジャズフェスティバルなど、今では見られないような個性的な催しが目白押し。
市民が主役となり、まち全体がひとつになる祭りが生まれた瞬間でした。

この祭りの原動力となったのが、前回お伝えした「新町大火からの復興」です。
それまで4つの神社で個別に行われていた祭礼が統合され、花火も受け継がれ、「見附まつり」として一つの形になりました。

当時の見附市長は3代目の内山文雄氏。
内山氏の任期中には、昭和43年の新町大火に加え、昭和49年にも今町1丁目・本町3丁目・新町1丁目で大火災が起きています。

繰り返される火災と向き合いながら、市民の心を支え続けたこのお祭りは、
きっと“前を向いて進む力”の象徴でもあったのでしょう。

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【掲載画像について】
写真は、第1回見附まつりのポスターと、当時の開催風景を写した記録写真です。ポスターには当時のイベント内容や時代背景が表れており、開催風景からは、まち全体がひとつになって盛り上がっていた様子が伝わってきます。昭和44年の見附の熱気と活気がうかがえます。